(平吉郷絵図。鍋島報佼会蔵。転載は報佼会の許可を要す)
先々代の活龍老師は坐禅家で、宿無し興道と呼ばれた沢木興道老師の弟子でした。当寺にも沢木興道がきて坐禅会をしており、手縫いの御袈裟や教授戒文などを拝領しています。
近代になり、曹洞宗も坐禅を軽視して学問や儀礼が中心となり、かたや民間は大学出がふえて、仏教は衰微しました。
それを、名利(出世、派閥や徒党、お金、権力、名声のこと)をもとめず、寺ももたずに九州でひたすら坐禅をしていた沢木興道老師がその坐禅の力で人々の帰依をあつめ、おとろえた曹洞宗を復興。行のちからで流れをとめ、逆行させました。先々代活龍はその「宿なし興道」の弟子で、当寺でも坐禅会をしていました。
下の写真は当寺で沢木老師が坐禅会をした時に撮影した写真です。活龍老師は前列左から二人目。
芦刈町北部の小路地区のうち、この地は寺町で末寺がならび、一時は少なくとも六件の寺がならんでいて、ために「坊主原」と呼ばれました。(佐賀県小城市)
◆千葉時胤公
鎌倉幕府の有力御家人で千葉でなくなり、遺骨はこの地にあった阿弥陀堂に埋葬されました。
阿弥陀堂は末寺の安養寺の前身と考えられます。
安養寺の境内地にあったという月星紋の石塔が当寺墓地に移されており、江戸時代に昔の武将の供養塔を建立した例があり(千葉宗胤、大友八郎)、この石塔の上部の月星紋の部分も同じように江戸時代に千葉時胤の供養のために建立されたものと考えています。
◆馬場頼周の陰謀と寺の開創。
戦国時代、龍造寺剛忠公の一族が馬場の陰謀で殺害されました。德島盛秀公の妻は龍造寺家出身で、父の龍造寺家純ら陰謀の犠牲者を弔うために、夫の徳島盛秀が寺を建立しました。
初代住職は松岩英祝で糸島の南林寺の住職です。大本山総持寺の輪番をもした高僧でした。
◆德島氏による開創
肥前千葉氏は嫡流家(胤鎮系)の当主が鹿島で陣没し、生き残りは千葉胤氏だけでした。
結局宿敵の庶流家(胤紹系)の胤朝が一族を継ぎ、この胤氏は一門家督を継げませんでした。
この胤氏の息の千葉義胤が芦刈町に来住して德島氏を名乗りました。
德島氏は肥前国主と言われた千葉胤鎮の唯一の直系子孫です。
◆寺の開創
戦国時代にこの地に鴨打胤忠が陣城をおいていて、そこに浜中(蝮森城)のち德島盛秀が攻め込んで奪取・放逐(坊主原の戦い)、のち、妻(龍造寺お福)の一族(龍造寺家純ほか)の供養のため寺を開創しました。
◆神代家良公の芦刈邑入部
天正年間、三瀬の神代家良公が芦刈町(芦刈邑)にうつり肥前七城の芦ヶ里城をかまえ、当寺を菩提寺としました。
この際、公の伯母の利栄妙貞尼は勝利公の供養のため末寺として福寿庵を寄進し、ここで勝利公の御遺骨を一部?全部?祀ったという話があります。仏像をも三瀬から持ってきたそうです。が、詳細は不明です。(諸富町慈広寺の故郁雄老師談)
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神代家は70年から100年芦刈に本拠をおき、のち本拠を川久保に移しました。佐賀鍋島藩のご親類家老です。この地はその後も神代御領(本藩)であり続けました。
徳島氏、そして芦刈邑主の神代家の菩提寺ですので寺領内には塔頭が建てられ、それらがのちに福寿寺、真中庵、安養寺、心月庵、正伝庵、ほかの末寺となり(そのため「坊主原」と呼ばれました)、ほかの地区にも秀林寺などの末寺もできました。
また、八大竜王宮、天子神社も寺領にありました。八大龍王は千葉氏の守護神でもあり、その関係でしょうか。
神代勝利公の子孫の代々の川久保邑主は当寺の檀家筆頭として、西原神代氏、肥前千葉氏直系の徳島氏とともに当寺を外護しました。
江戸末期の子年の台風で寺も大被害をうけ(「芦刈中立ちたる家なし」の惨状。)、さらに明治時代には選挙干渉の際に官党の拠点となり、官党民党の争いにまきこまれました その時期に忍耐の人物である温厚な東寛海老師が住職となり、本堂を再建して再中興しました。以後、東家の住職が五代にわたり守ってきました。 東寛海ー東大心ー東活龍(十時活龍)ー東哲成ー当職
松岩英祝(松岩祝)老師。
筑前糸島の住職で、大本山総持寺の輪番をもつとめた高僧で、のち、芦刈町の当寺の開山となる。
戦国武将の神代勝利は芦刈町の天満宮と権現の間に寺を開創したとされる。
神代勝利は曹洞宗の檀徒で、糸島に亡命中に熱心に寺参りしていたと伝わり、そのお参りしていた寺とはこの松岩英祝と思われる。
◆千葉氏嫡流胤鎮系の子孫の德島氏のお墓。
◆神代氏の江戸時代前半百年のお墓。当代のお墓。
◆ 浦氏のお墓。
幕末の江藤新平の母浦静子の生家。この女性が江藤新平を薫陶し、傑物を育てた
◆幕末の志士(尊王家)の江原喜右衛門のお墓。
神代勝利の側近の江原石見守の子孫。神代豊前守の血をも引き、明治時代に神代に復姓。
江藤新平の従兄弟で、ともに真木和泉のもとで尊王攘夷に従事し、江藤のボディガードや身の回りの世話をしたという。
◆ 徳島篤胤(健之丞)のお墓。
幕末小城藩の一代家老。
小城藩の財政改革や海軍の整備に活躍。戊辰戦争や江藤新平の佐賀の役では小城勢の副司令官。
◆ 高木英灼のお墓。
佐賀藩士。江藤新平の佐賀の役の斥候隊長。
◆日露戦争の森永尹の墓。
旅順港封鎖作戦で戦死。
◆高木正枝大佐。
英灼の子。
第一次大戦では青島戦に参加。日本初の飛行船部隊創設時のメンバー。
近衛武官をも務め大正天皇の軍の演習でも側に仕えた。陛下の崩御の際にはご遺体をお守りし、葬儀では棺をかついだ。崩御の夜、西園寺公望が深夜に陛下のご遺体の前で一人何時間も端坐し微動だにしなかったその場に単身居合わせ、西園寺公には生涯感嘆していたという。
のち満洲国防空協会の理事となり、帰国後は首相より三顧の礼をうけ鶴見の航空補給廠の所長となる。幻の東京オリンピックでは馬術での出場が内定していたとの事で、事実、戸山の軍の学校でも教官をした。
◆ 土橋勇逸中将。
第二次大戦で活躍。清廉な武人。
◆小城羊羹の祖の森永惣吉。
兄とともに芦刈町で屯田兵をしていたと言う。
◆神戸市長の原口忠次郎。
◆◆◆
◆東祖心
満州に渡り、公主嶺に坐禅道場として仏心寺を開創。井上日召の坐禅の師、法華経信仰に導く。
血盟団事件との関連 ➡︎ 『芦刈町戦国史』参照
・井上日召の宗教体験➡︎名著『「悟り体験」を読む』(大竹晋)参照。
◆十時大円=南嶽大円(圓)
江戸時代後半の十時仁兵衛は唐津藩(小笠原長昌公)の家臣で、その子の了務は小笠原組に属し、兄弟の十時見外(見外哲龍)は秀島鼓渓の弟子となり、のち相知町医王寺の住職になりました。
その孫の十時大圓(南嶽大圓)は、フィリピンのダバオにわたり開南寺(海南寺)を創建、坐禅を弘法しました。
日本人会のリーダーの一人として、日本人植民者が開墾した農園の借地権をまもるために大統領の没収令に抵抗、のち、米軍の侵攻によりミンダナオ島ジャングルにのがれ、そこで妻と共に亡くなりました。
弟の十時活龍(のち東活龍)が当寺に入り法を継いで東を名乗りました。
◆ 沢木興道老師の坐禅会。
先々代の東活龍老師は、沢木興道老師の早い時期からの弟子でした。
沢木興道は「宿無し興道」と呼ばれた坐禅家で、坐禅の力で曹洞宗を再興しました。のち活龍は永平寺の地方副監院となったといいます。
◆ 森永湛堂老師の菩提寺。
臨済宗の伊万里円通寺僧堂の師家。ホトトギス派の同人として僧堂句で有名で、杉洞の名で知られている。森永家のお墓に分骨あり。
◆書聖梧竹はお坊さんではありませんが、大心和尚と親交がありよく寄り泊まっていたそうです。
大心和尚はお茶やお花を教え、自身で竹の書をも書いています。
当職は福井県小浜市の発心寺僧堂で原田雪渓老師のもとで修行しました。
坐禅修行を正面から捉え、作務のほか、畑仕事や長期の托鉢もしています。一週間の摂心(集中坐禅)も年の半分はします。
一年中はだしで、ストーブやエアコンもない。
一般人から坐禅のために出家した者が中心ですから、本山のような法要技術の習得ではなく、坐禅を重視してただ自己をみつめ修行を重ねる、今では珍しい僧堂です。
冬の夜も厳寒の位牌堂で坐り、冬の托鉢では凍結防止の水で足の裏がパカパカ割れて血まみれになり、接着剤でつけてまわりが呆然としていたのも今は懐かしい思い出です。
父の事故でやむなく下山したときも、「○○さんは無師独悟だ。木や石を相手に坐りなさい」とお言葉を頂きました。
その後は千葉県多古町に太子堂という庵をかまえ、農家で働きながら坐禅会をしていました。そして円空に惹かれるようになり、「一刀三礼」と念仏を唱えながら仏像を彫るようになり、その無心の中で一閃して四国に遍路にわたりました。
そして天の下、この大地こそが真箇の僧堂であることに開眼、その後、秩父巡礼道、坂東巡礼道、大嶺奥駈道(吉野〜前鬼)をテントをかつぎながら行脚しました。
写真は坂東行脚で関東を一周した時のものです。
義介禅師は永平寺三世で、道元禅師、二世懐奘禅師に認められて法をうけ、三世となりました。
そして、禅は人々を救うちからがあるのだと、全国への禅の布教に力を注ぎました。
しかしこの姿勢は、山内の派閥からの攻撃を引き起こしました。法を求める者は山や川をこえて自らやってくるべきであり、禅をこちらから日本各地の津々浦々に布教というのはあり得ない、というのです。
祈祷を採用したこと、伽藍を整備した事も非難の口実となりました。
伽藍の整備は二世懐奘禅師の命によるものでしたが、徒党をくむ者にはそんな事もどうでもよかったのでしょう。
義介禅師が老母の介護のために一度禅師を退いて(二世懐奘禅師が代わりに復帰した)、麓で母を介護したこと、これが決定的だったのでしょう。(なお、介護がおわって義介禅師はふたたび禅師に戻りました。
)
中国でも明代に王陽明は坐禅を志しましたが、家族を捨てねばならぬの一点に懊悩し、ついに断念した例があります。それを考えれば、義介禅師は出家なのに肉親を捨てきれない、これは何事かとの批判には説得力があったのでしょう。
道元禅師は仏道とは自己をならうなり、と教えました。
この「ならう」はよく「習う」と言われますが、私見ですが「倣う」ではないでしょうか。深奥の自己に従う。いや、従うと言えば二になる。自己そのまま、です。
義介禅師はこの「自己を倣う」をそのまま実践し、それが老母の介護のため、僧団では「家族を捨て、肉親の情をすてて出家する」が長く伝統とされて来ましたが、この最もシンボリックな場面であらわれ、部分社会の外的な権威・規範に反逆する事になったのでしょう。
義介禅師はこの「自己を倣う」をまさに体現していました。
坐禅への信があった。だからこそ、永平寺僧団の基礎がなった今、この坐禅をひろめ、人々が内なる般若のままになる道を伝えようとしたのです。
なお、御祈祷とは端的には神仏への祈りです。義介禅師の一番弟子の螢山禅師のお母さんは道元禅師の弟子で、やはり観音信仰の人でした。
義介禅師や螢山禅師には神仏への信仰がありました。総持寺派の淵源は神仏への信であるとも言えるでしょう。
道元禅師についても海路遭難時の祈りの話が伝わっています。
八十歳をすぎて本山から放逐された義介禅師は、螢山をつれ、山々をこえ加賀にゆきました。ふつうなら失意のうちに終わるところです。
が、義介禅師はちがいました。
この加賀の地で新たに大乗寺僧堂を開創し、誓願と祈りの禅僧らを育てました。
そして高弟の螢山は、のち新たに永光寺僧堂や総持寺僧堂を開創しました。その弟子らも日本各地に僧堂を、寺を建立し、この新たな禅は日本中に広がりました。そしてその総持寺派から曹洞宗と呼ばれるようになり、曹洞宗が成立しました。
かたや、義介禅師を放逐したあとの永平寺僧堂からは大檀越の波多野氏が去り、急激に衰退します。
このとき、一時は廃寺まじかになった永平寺を、この総持寺が支えました。そして江戸時代は曹洞宗寺院のうち大半が総持寺系でした。
近代になり一般人に大卒がふえ知識レベルもあがり、その風潮のなか、曹洞宗も衰微しました。
その時、野にあって全てを捨てて坐禅を専らにしていた「宿無し興道」こと沢木興道老師を、大本山総持寺は後堂老師に抜擢しました。
住職資格がなければ本山役寮にはなれないのがルールですが、総持寺はあえて野の坐禅家を抜擢したのです。
そして曹洞宗は復興されました。なお、この総持寺は、現代でも、同じように住職資格もなかった吉野真常老師を後堂に登用しています。
坐禅は今日の曹洞宗では評価はされません。そんな中、住職にもならず古仏の道を歩む在野の坐禅家〜名利を求めず、坐禅に専心する行者を古仏という〜を大本山総持寺は認め、たびたび登用してきました。これも、人々を救う事を第一義とした義介禅師の誓願が根底にあるからです。
今日、義介禅師はあまり知られていません。しかし、曹洞宗の復興は、あくまで義介禅師の誓願の継承と坐禅にあります。義介禅師こそ、道元禅師、懐奘禅師にみとめられて永平寺僧堂の後図を託され、さらに螢山禅師を育てた方です。
どうぞ皆さん、石川県に旅行された時には大乗寺僧堂にぜひ拝登なさってください。
また、地震で被害を受けた能登半島の被災者の生活再建、また、できうれば総持寺祖院の復興のためにもお力をお貸しください。よろしくお願いします。
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| 日時 | 毎月初めの日曜日朝6時ですが、現在はコロナより休止しています。 |
| 時間 | 6:00~大体7:00 坐禅後は朝食、茶話となります。 |
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