(平吉郷絵図。鍋島報佼会蔵。転載は報佼会の許可を要す)

坐禅草。
田中豊茂先生の撮影。
(上は令和6年4月15日。下は令和5年)

寺の歴史

 小路のうちこの地は寺町で末寺がならび、一時は少なくとも六件の寺がならんでいて、ために「坊主原」と呼ばれました。

◆千葉時胤公


 鎌倉幕府の有力御家人で千葉でなくなり、遺骨はこの地(平吉郷)にあった阿弥陀堂に埋葬されました。
 
 寺の末寺に極楽山安養寺があり、
「安養浄土」=「阿弥陀様」がいる浄土=極楽
にて、阿弥陀堂は安養寺の前身と考えられます。そして月星紋の石塔が当寺墓地に移されています。



◆馬場頼周の陰謀と寺の開創。
 

 戦国時代、龍造寺剛忠公の一族が馬場の陰謀で殺害されました。德島盛秀公の妻は龍造寺家出身で、父の龍造寺家純ら陰謀の犠牲者を弔うために、夫の徳島盛秀が寺を建立しました。


 初代住職は松岩英祝で糸島の南林寺の住職です。大本山総持寺の輪番をもした高僧でした。糸島亡命時代の神代勝利公は糸島の高僧らを訪ねたとあり、この永祝老師をも訪ねたと考えて良いでしょう。

◆德島氏による開創

 肥前千葉氏は嫡流家(胤鎮系)の当主が鹿島で陣没し、生き残りは千葉胤氏だけでした。

結局宿敵の庶流家(胤紹系)の胤朝が一族を継ぎ、この胤氏は一門家督を継げませんでした。なお、この胤紹系はのちに少弐氏にとって代わられます。


 この胤氏の息の千葉義胤が芦刈町に来住して德島氏を名乗りました。


 戦国時代にこの地に鴨打胤忠が陣城をおいていて、そこに浜中(蝮森城)のち德島盛秀が攻め込んで奪取・放逐(坊主原の戦い)、のち、妻(龍造寺お福、龍造寺家純娘)を開基として德島盛秀が寺を建立しました。


 德島氏は肥前国主と言われた千葉胤鎮の唯一の直系子孫です。

◆神代家良公の芦刈邑入部

 天正年間、三瀬の神代家良公が芦刈町(芦刈邑)にうつり肥前七城の芦ヶ里城をかまえ、当寺を菩提寺としました。
 
 この際、公の伯母の利栄妙貞尼は勝利公の供養のため末寺として福寿庵を寄進し、ここで勝利公の御遺骨を一部?全部?祀ったという話があります。仏像をも三瀬から持ってきたそうです。が、詳細は不明です。(諸富町慈広寺の故郁雄老師談)

。

 神代家は70年から100年芦刈に本拠をおき、のち本拠を川久保に移しました。佐賀鍋島藩のご親類家老です。この地はその後も神代御領(本藩)であり続けました。

 
 徳島氏、そして芦刈邑主の神代家の菩提寺ですので寺領内には塔頭が建てられ、それらがのちに福寿寺、真中庵、安養寺、心月庵、正伝庵、ほかの末寺となり(そのため「坊主原」と呼ばれました)、ほかの地区にも秀林寺などの末寺もできました。
 また、八大竜王宮、天子神社も寺領にありました。八大龍王は千葉氏の守護神でもあり、その関係でしょう。


 神代勝利公の子孫の代々の川久保邑主は当寺の檀家筆頭として、西原神代氏、肥前千葉氏直系の徳島氏とともに当寺を外護しました。いまも芦刈邑(川久保邑)主の神代家御直系や徳島氏のお墓を祀っています。

◆子年の台風と選挙干渉事件

 江戸末期の子年の台風で寺も大被害をうけ(「芦刈中立ちたる家なし」の惨状。)、さらに明治時代には選挙干渉の際に官党の拠点となり、官党民党の争いにまきこまれました
 その時期に忍耐の人物である温厚な東寛海老師が住職となり、本堂を再建して再中興しました。以後、東家の住職が五代にわたり守ってきました。

東寛海ー東大心ー東活龍(十時活龍)ー東哲成ー当職

お祀りする歴史上の人物

◆千葉氏嫡流胤鎮系の子孫の德島氏のお墓。

◆神代氏の江戸時代前半百年のお墓。当代のお墓。

◆ 浦氏のお墓。
 幕末の江藤新平の母方の実家。
 江藤新平の人物を育てたのは儒学者を父にもつ浦静子の薫陶・指導による。

◆幕末の志士(尊王家)の江原喜右衛門のお墓(神代豊前守子孫でもあり神代に復姓)。
 神代邑家臣。芦刈町に居住。
 江藤新平の従兄弟で、共に尊王攘夷に従事し、江藤のボディガードや身の回りの世話をしたという。
 神代勝利の側近江原石見守の子孫。
 ➡︎『芦刈町戦国史』参照

◆ 徳島篤胤(健之丞)のお墓。
 幕末小城藩の一代家老。
 小城藩の財政改革や海軍の整備に活躍。
 戊辰戦争や江藤新平の佐賀の役では小城勢の副司令官。

◆ 高木英灼のお墓。
 佐賀藩士。
 江藤新平の佐賀の役の指揮官の一人。
 佐賀の役の斥候隊長。
 母は相良知庵の相良氏。そのおかげで死罪を免れた。

◆日露戦争の森永尹の墓碑。
 旅順港封鎖作戦で戦死。

◆高木正枝大佐。
 英灼の子。
 第一次大戦では青島戦に参加。
 日本初の飛行船部隊創設時のメンバー。
 近衛武官をも務め大正天皇の軍の演習でも側に仕えた。陛下の崩御の際にはご遺体をお守りし、葬儀では棺をかついだ。崩御の夜、西園寺公望が深夜に陛下のご遺体の前で一人何時間も端坐し微動だにしなかったその場に単身居合わせ、西園寺公には生涯感嘆していたという。
 のち満洲国防空協会の理事となり、帰国後は首相より三顧の礼をうけ鶴見の航空補給廠の所長となる。幻の東京オリンピックでは馬術での出場が内定していたとの事で、事実、戸山の軍の学校でも教官をした。

◆ 土橋勇逸中将。
 第二次大戦で活躍。清廉な武人。
 当時は当寺の檀家。

◆小城羊羹の祖の森永惣吉。
 兄とともに芦刈町で屯田兵をしていたと言い、没落武士の授産者搦の開墾か。

◆神戸市長の原口忠次郎。

野僧

 当職は福井県小浜市の発心寺僧堂で原田雪渓老師のもとで修行しました。
 坐禅修行を正面から捉え、作務のほか、畑仕事や長期の托鉢もしています。一週間の摂心(集中坐禅)も年の半分はします。

 一年中はだしで、ストーブやエアコンもない。
 一般人から坐禅のために出家した者が中心ですから、本山のようには下山後のための法要技術の習得に力点をおいてもいない。坐禅を重視してただ自己をみつめ修行を重ねる、今では珍しい僧堂です。

 冬の夜も厳寒の位牌堂で坐り、冬の托鉢では凍結防止の水で足の裏がパカパカ割れて血まみれになり、接着剤でつけてまわりが呆然としていたのも今は懐かしい思い出です。

 父の事故でやむなく下山したときも、「○○さんは無師独悟だ。木や石を相手に坐りなさい」とお言葉を頂きました。

 その後は千葉県多古町に太子堂という庵をかまえ、農家で働きながら坐禅会をしていました。

 そして円空に惹かれるようになり、「一刀三礼」と念仏を唱えながら仏像を彫るようになり、その無心の中で一閃して四国に遍路にわたりました。
 そして天の下、この大地こそが真箇の僧堂であることに開眼、その後、秩父巡礼道、坂東巡礼道、大嶺奥駈道(吉野〜前鬼)をテントをかつぎながら行脚しました。

写真は坂東行脚で関東を一周した時のものです。

聖地ラダック

 写真はインドの聖地ラダックの僧堂にて。

 ホテルには泊まらず、篤信の老人宅や僧堂などをまわりました。なんと僧堂には子供たちもいます。そして老人宅に泊まった日は三仏忌の日でした。言葉は通じず、しかし沈黙のなかにつながり二人の目があってそのまま共に立ち上がり延々と無心に五体投地をしたのは今でも忘れられません。

 威儀即仏法のなかでは見た目の形にばかりこだわるパフォーマンス的な礼拝(らいはい)となりがちですが、ではなく、信仰の発露である五体投地です。

 老僧も稚僧もおなじ真紅の袈裟なのにも驚きました。衝撃をうけ尋ねましたら、ラダックではそれが当たり前、ダライラマもそうだと。衣の色が階級を意味する封建的・差別的な今日の日本の仏教とは根本的にちがいました。

 もっとも、ラダックはお経の学習が主で禅〜行はそれほどなされていないとの説明にも驚きました。
 が、僧侶らのあのゆったりしたリズムと前現代的な生活なら、生活そのものに自己への沈潜は当たり前にプログラムされていますから、特に坐禅と銘打つ必要はないでしょう。
 むしろ日常坐臥すべて坐禅と銘うつ我々に、真に日常底に禅があるのかを問うべきです。

 とはいえ、日本の仏教は相手の魂までは奪わない丁度いい距離感を実現しました。宗教は本能的に人の心を鷲づかみにして全面的に支配せんとし、個々の良心すら抑圧してしまいます。
 そんな剥き出しの宗教のリアルのなか、日本の仏教が到達したこの距離感こそ民主主義と政教分離の前提として断固として守ってゆくべきでしょう。

陽明学の林田明大先生をお迎えして

この写真は林田先生がお泊まり頂いた時のものです。学問的には禅と陽明学は別物になるのでしょうが、実践の求道としては全く同じです。

むしろ今日の禅では封建的な階級主義と権威主義、僧堂主義の中村で、般若(良知)の発露はむしろ抑圧される傾向があります。その行き着く果ては明らかです。が、僧侶も一般社会で生活するしかない今日、一般社会のなかでの良知(般若)の発揮を希求する陽明学にも多くのものが学べるでしょう。

坐禅会情報

料金お賽銭箱にどうぞ
日時毎月初めの日曜日朝6時ですが、現在はコロナのため休止しています。
時間6:00~大体7:00

坐禅後は朝食、茶話となります。

住所〒849-0311
佐賀県小城市芦刈町
駐車場駐車なさったら雑草を5本から10本お取りください。
持ち物しめつけず、楽で音がしない服装

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