カバー写真 (出典、平吉郷絵図(鍋島報佼会蔵)。転載は要許可)。

佐賀県小城市芦刈町にある曹洞宗総持寺系のお寺の福田寺です。山号は鶴簏山。

肥前千葉氏の千葉胤鎮の末裔である徳島氏が建立しました。塔頭寺院もならび、坊主原と呼ばれました。

坐禅草

田中豊茂先生の撮影。
(上は令和6年4月15日。下は令和5年)

『内なる声を追い求めた人々』(文彩堂)

 かつて自らの深奥に天の、神仏の導きを求め、この深奥から発するかそけき声に耳を傾けた人々がいました。そして彼らはこれを法と呼びました。スティーブ・ジョブズ風に言えば、内なる声です。

歴史を見るに、社会の不正や差別主義、戦争等の時代において、そんな内なる声を必死に聞き取った少数の人々が、そんな絶望の時代に光をもたらしてきました。

外に権威をおけば(イデオロギー、経典、絶対指導者)、それは権威主義、階級主義、独善的正義の主張と対立・戦争につながります。

とはいえ、この世界の苦悩に対するには、ただの作法・パフォーマンスに堕した坐禅でもムリです。

ではなく、坐への信により、つまり、自らの深奥に権威・指導原理ともいうべきものがあると信じ、そして、日々、無心になる時間をもち、自己のうちに法をもとめ、少しでも多くの人が日々の生活や仕事の各場面でその法にしたがう法帰依の実践の積み重ねにあります。

その中でも、特に内なる声、法をつよくつかみ得た人々が世界の歴史のなかで、その時代時代の矛盾に対し、その時代の苦悩を救ってきた訳です。

坐禅は、作法偏重からはなれて、現実の衆生の苦しみの世界のなかで坐禅を追い求めるなら、この世の現実に多く貢献し得るでしょう。

が、本書では、自家撞着とならぬよう禅は敢えて割愛し、この内なる法・内なる声による救済は宗教や文明を問わず普遍的なものという着眼から、ガンジー、ジョージ・フォックス、他の例を挙げています。

(なお、巻末には、天皇家の祈りについても記しています。)


納骨所

納骨所、分譲中です。

また永代供養のご相談もお受けしております(現在の宗旨は不問です。納骨、またその後の供養は当寺にて執り行います)。

小城市(牛津町・芦刈町・三日月町・小城町)、佐賀市、他お気軽にお問合せ下さい。

devafather777あっとgmail.こむ

聖地ラダック

 写真はインドの聖地ラダックの僧堂にて。

 ホテルには泊まらず、篤信の老人宅や僧堂などをまわりました。なんと僧堂には子供たちもいます。そして老人宅に泊まった日は三仏忌の日でした。言葉は通じず、しかし沈黙のなかにつながり二人の目があってそのまま共に立ち上がり延々と無心に五体投地をしたのは今でも忘れられません。威儀即仏法とはちがい、まさに信仰の発露である五体投地でした。

 老僧も稚僧もおなじ真紅の袈裟なのにも驚きました。尋ねましたら、ラダックではそれが当たり前、ダライラマもそうだと。衣の色が階級を意味する封建的・差別的な今日の日本の仏教とは根本的にちがいました。

 ラダックはお経の学習が主で禅〜行はそれほどなされていないとの説明にも驚きましたが、僧侶らのあのゆったりしたリズムと前現代的な生活なら、生活そのものに自己への沈潜は当たり前にプログラムされていますから、ことさらに行と銘打つ必要はないのでしょう。

今日のこされた聖性の地ラダックがこれからも残る事を願います。

平常心是道

写真上はインドのラダックの篤信者のお宅に泊まった時に娘さんが食事を作っていた光景で、この光景の静謐さに心を打たれ、撮影しました。

下の写真は一泊させて頂いた山中の僧堂にて、小麦粉をといた飲み物を頂いた時の写真。

上は大正時代ヵの福田寺(大心老師代ヵ)

山の行より里の行

スティーブ・ジョブズ

「君たちの時間は限られている。他の誰かの人生を生きて、他人が決めたルール(外なる権威、ドグマ、イデオロギー、こうでなくてはならないという教条主義)に縛られずに。他人の意見に、自分の心の声を消されないように」。

仏教では「山の行より里の行」と言いますが、それは、日々の毎日の生活、仕事、家庭、食事を行場とし、生活のさまざまな場面で法にしたがう、内奥から発する声にしたがうものです。

 写真は戦後の福田寺(活龍老師代)
 戦時中の空襲で爆弾を落とされ、活龍老師が終戦で帰国した時に屋根に大きな穴があいていた。屋根右上の瓦が新しいのが、その修復痕になります。

禅における沈黙

 禅における沈黙とは、耳を傾けるための沈黙です。

「仏道とは自己をならうなり」。深奥から内発してくるかそけき声に、耳をかたむけ、したがう。「自己に倣う(ならう)」。つまりは、うちなる般若のままに。坐禅はこの自己に至る道です。

 坐禅にあるのは外なる権威への盲従や形式への執着ではありません。坐への信、般若(内なる声)への信。義介禅師の生涯は、奇矯にはしらず、日常底のなかでこの「自己をならう」を実践するものでした。

 centering downしてゆき、沈黙のなかに内発する自己をつかみ従うのです。

 〜自己のままに。般若のままに〜

 不正や理不尽が世にはびこる時代こそ、みなが内なる声に耳を傾け従うことで、この世界ははじめて変わるのです。禅が世界にもたらしうる奇蹟があるとすれば、それです。ここに尽きます。

 このあたりを知りたい方は、拙著、『内なる声を追い求めた人々』をお読みください。Amazonで購入できます。

南無の心

写真は『運歩色葉集』という江戸時代の国語辞典より。

苦しみは救いを、信仰を求める機縁となる。
「病中山野(の行)」といい、病も、不幸や逆境も、山野での修行と何ら変わりません。

年をとれば誰しも、あと何年生きられるのか。それを自問します。それを考えた時、のこった時間をいかに真に生きるか、これを考える事になります。そして、なぜもっと早く生き方を変えなかったのかと後悔する。

人は、苦しみの中であればこそ、余念なく、真剣にここを切所として、目の前の現実に集中できます。病や逆境は自分では変える事のできないものですが、しかし、それを機縁として、自らのうちに問い、深奥から発する声を聞き取り、生を変える端緒をつかむ事できるのです。

災害など多くの理不尽な現実で苦しんでおられる方、多数おられるでしょうが、そこを召命callingとして、どうぞ生き方を変える、真に生きるきっかけとして下さい。

生や、全機の現れ、死や、全機の現れ、苦しみもまた然りです。

願わくは、この功徳を以てあまねく一切に及ぼし、我ら衆生みな共に仏道を成ぜんことを。

神代氏入部の「車返しの桜」

「車返しの桜」。

神代氏が芦刈邑に入部した時に殿様が籠の中からあの桜はなん重か?と三度問い、家臣が見にゆき、あの桜は〜と復命しました。それから毎年、この桜で殿様が花見をしたという。八重。
 また、神代氏の殿様がお茶をした井戸もある。いまは水は枯れたが、昔はこのあたりは水がでず人々が水をもらいにきたそうです。

資源もない災害国の日本に生まれた私たちの誇りは、肩書きでも、財布でもでもなく、
助け合い、分かち合い、希望を失わず、なんど倒れても立ち上がる生き方です。

倒れてもいい。が、もう一度立ち上がりましょう。

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★禅戒のこと

●禅戒一如

日常坐臥を無心に行ずる中に、自ずと戒が実現(現成)される、そこにおいては、禅と戒は一体である。そして、それぞれの地で、身をもって法を打ちたて、法を守るのが禅僧の仕事であり、こうして、伽藍ではなくその行者・禅者自身が作務叢林、坐叢林となる。

●岡本太郎
永遠というのは時間を越えた「瞬間」なんだ。

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information

5月下旬まで忙しく、個人的な用向きでの訪問はご容赦願います。


×現在休止中
毎月第1日曜   朝6時より  坐禅会(約30分)。了って、お粥あり。九州佐賀県小城市芦刈町
※現在はコロナにて休止中

2018.1.9。午後2時より。  新年ご祈祷会。落語あり。

2018.10.XX  団体参拝にて愛媛団参拝を予定(瑞応寺僧堂などの曹洞宗名刹に拝登し、さらには四国霊場や観光地を巡ります)

2018.4.17  お施餓鬼会。

餓鬼(無縁仏)を供養すればお経の功徳は7倍となります。その7倍の功徳を大切な故人・先祖に回向し巡らすのが、お施餓鬼です。

2018.4.17  お施餓鬼会。

餓鬼(無縁仏)を供養すればお経の功徳は7倍となります。その7倍の功徳を大切な故人・先祖に回向し巡らすのが、お施餓鬼です。

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  • 永代供養、納骨所、葬儀のご相談については、あらかじめ、坊守にお電話のうえ、来寺ください。住職は電話はこわいので、あくまで坊守に。  合爪


※当寺では過去帳の開示は一切しておりませんし、先祖調査・系図作成への協力もしておりません。一般論として、郷土史についてのアドバイスならできる事もあるでしょうが。

 また、うちに限らずどこのお寺にであれ歴史を調べるために伺う場合には、あらかじめ予約の上、お仏前は持参しましょう。当職は地域の歴史の継承も寺の役割と思い郷土史を調べはしてますが、一般のお寺さんは歴史には全く関心はありません。

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