願わくは、この功徳を以てあまねく一切に及ぼし、我ら衆生みな共に仏道を成ぜんことを。

さむい日がつづいています。

家族で新しい年を迎えようという喜びの日である元日に、能登地方でたいへんな地震がおきました。
被害は想像をこえたもので、地面も何メートルも隆起するという大地震でした。
そして、多くの方が、くるしんでいます。

私たちは一人一人がよわい存在です。が、みなで助けあう事ができます。
世相わるくなり、人が人を喰らうがごとき事件がふえてきた昨今ですが、今こそ助け合いましょう。
そして、安全地帯にいる私たちは平生よりもより生きる事で、仕事であれ、生活であれ、復興余力をまし、被災地支援につなげていきましょう。被災地には行けなくても、身近な人を助け、また、助けられた人も他の人を助け、皆で助け合っていきましょう。

一灯隅を照らし、万灯国を照らす。
私たちのまわりを思いやりで灯していきましょう。みなで助け合いましょう。

災害国日本に生まれた私たちの誇りは、肩書きでも、財布でも、持ち物の豊かさでもなく、
助け合い、分かち合い、希望を失わず、なんど倒れても立ち上がる生き方です。
助け合い、希望をうしなわず、目の前の石を一つ一つとりのぞき、もう一度立ち上がりましょう。

被災地への支援、よろしくお願いします。
珠洲市への寄付
https://www.city.suzu.lg.jp/site/hurusato-nouzei/4025.html

◆新しい納骨所、設置しました。募集中です。

また永代供養のご相談もお受けしております(永代供養塔は宗旨不問です)。

歴史のあるお寺です。小城市牛津町・芦刈町・佐賀市他の方、お気軽にお問合せ下さい。

カバー写真

(出典、平吉郷絵図(鍋島報佼会蔵)。転載は要許可)。

 佐賀県小城市芦刈町にある曹洞宗総持寺系の寺院です。山号は鶴簏山です。

 仏教では、禅宗以外はみな「仏やお経を信じれば救われる」と教えます。
 しかし、禅宗、とりわけ曹洞宗はもっと大切なことがあると教えます。

 「仏道とは自己をならうなり」。
 深奥の自己に倣う。つまりは、うちなる般若のままに。坐禅はこの自己に至る道です。

 作家の西加奈子は言っています。
 「あなたの信じるものを誰かに決めさせてはいけないわ」。

 坐禅にあるのは外なる権威への盲従や形式への執着ではありません。坐への信、内奥の般若(内なる声)への信です。

 義介禅師以来、とりわけ総持寺派はこの「自己をならう」を実践してきました。centering downしてゆき、沈黙のなかに内発する自己をつかみ従うのです。
 〜自己のままに。般若のままに〜

 みなが内なる声に耳を傾けるようになる時、この世界ははじめて変わるのです。

上は大正時代ヵの福田寺(大心老師代ヵ)

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★禅戒のこと

●禅戒

禅宗の曹洞宗では、禅戒一如という教えがあります。
日常坐臥を無心に行ずる中に、自ずと戒が実現(現成)される、そこにおいては、禅と戒は一体のものであると。

それぞれの土地で法を守るのが禅僧の仕事であり、それぞれの寺が作務叢林、坐叢林。

現実世界(娑婆世界)の中で法を守るのは困難なことですが、代々の僧が日々を無心に行じ、それが後世にも受け継がれゆくのです。

●勝海舟
人は何事によらず胸の中から忘れ切るといふことが出来ないで、始終それが気にかゝるといふやうではなかなかたまつたものではない。いはゆる「坐忘」といつて、何事もすべて忘れてしまつて、胸中濶然として一物を留めざる境界に至つて初めて万事万境に応じて横縦自在の判断が出るのだ。

〜たゞたゞいつさいの思慮を捨てゝしまつて、妄想や雑念が、霊智を曇らすことのないやうにしておくばかりだ。

いはゆる心を明鏡止水のごとく磨ぎ澄ましておきさへすれば〜

 上は戦後の福田寺(活龍老師代)
 戦時中の空襲で爆弾を落とされ、活龍老師が終戦で帰国した時に屋根に大きな穴があいていた。屋根右上の瓦が新しいのが、その修復痕になります。

◆ 先先代の東活龍老師(十時活龍)

 先々代の活龍老師は坐禅家で、宿無し興道と呼ばれた沢木興道老師の弟子でした。当寺にも沢木興道がきて坐禅会をしており、手縫いの御袈裟や教授戒文などを拝領しています。

 下の写真は当寺で沢木老師が坐禅会をした時に撮影した写真です。活龍老師は前列左から二人目。

神代氏入部の「車返しの桜」

「車返しの桜」。

神代氏が芦刈邑に入部した時に殿様が籠の中からあの桜はなん重か?と三度問い、家臣が見にゆき、あの桜は〜と復命しました。それから毎年、この桜で殿様が花見をしたという。八重。
 また、神代氏の殿様がお茶をした井戸もある。

平常心是道

「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」、かの瑩山が師の義介禅師に答えた言葉です。

この内容はしばしば記されている通りです。仏法は難解な教理や特別な行にあるのではない、日常底にこそある。日常底に無心になりきる。

禅でしばしば聞く言葉ですが、
あえて言うなら、この当時に茶を喫し、飯を食べるためにどれくらいの手間がかかっていたか。

私がいた発心寺僧堂では、薪を割り、また托鉢でもらったお米を選り分け、そして釜で飯を炊き、水を沸かしていました。

インドのラダックの山奥の僧院でも粉を混ぜたようなお茶を頂きましたが、それとて、岩場を歩いてやっと辿り着ける地、その粉、なんの粉かもう忘れましたが、そこでは貴重なものです。水だってわざわざ汲みに行ってゆき、それを目の前の小さな簡易でコンロで。

篤信者のお宅に泊まった時にも娘さんが食事を作るのを見た時も、その部屋だけは照明もない暗い中で作っていました。

一口に「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と言うとき、その背後にあるこのような手間や辛苦が、心の静謐にも重み、深みをもたらしています

今日、おなじ喫茶喫飯とは言いながら、かんたんに湯がわき、ご飯ができる。その便利さのなかで「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」という禅語がいかに空疎に、軽く消費されている事か。

そこを自覚した上で改めて日常底の工夫を問い直す事が必要なのだと思います。

お寺に関係のある和尚さん

◆東祖心
 満州に渡り、公主嶺に仏心寺を開創。
・血盟団事件(井上日召)との関連  ➡︎ 『芦刈町戦国史』参照
・井上日召の宗教体験➡︎名著『「悟り体験」を読む』(大竹晋)参照。
 釈尊が否定したバラモンと同じく儀礼主義と派閥・徒党に堕した今日の仏教に対して行の復権を強く問いかける内容でもあります。

◆十時大円=南嶽大円(圓)
   先々代の十時活龍(のち東活龍)老師は、曽祖父十時仁兵衛は唐津藩(小笠原長昌公)の側用人で、祖父の十時見外(見外哲龍)は秀島鼓渓の弟子で相知町医王寺の住職になりました。
 活龍の兄の十時大圓(南嶽大圓)老師は、フィリピンのダバオにわたり開南寺(海南寺)を創建、坐禅を弘法しました。日本人会のリーダーの一人として、日本人植民者が開墾した農園の借地権をまもるために大統領の没収令に抵抗、のち、米軍の侵攻によりミンダナオ島ジャングルにのがれ、そこで妻と共に亡くなりました。

 寺とご縁のある2名の禅僧が戦前に満州やフィリピンで新寺を建立し、禅の海外布教を志したこと、誇りに思います。が同時に、あの戦争でアジアの多くの人々が亡くなった事を思うと、その多大な犠牲を悼み冥福を祈らざるを得ません。

◆ 沢木興道老師の坐禅会。
 先先代の東活龍老師は、沢木興道老師の早い時期からの弟子でした。
 沢木興道は「宿無し興道」と呼ばれた坐禅家で、坐禅の力で曹洞宗を再興しました。のち活龍は永平寺の地方副監院となったという。

◆ 森永湛堂老師の菩提寺。
 臨済宗の伊万里円通寺僧堂の師家。
 森永家のお墓に分骨あり。
 ホトトギス派の同人として僧堂句で有名で、杉洞の名で知られている。

◆書聖梧竹はお坊さんではありませんが、大心和尚と親交がありよく寄り泊まっていたそうです。
 大心和尚はお茶やお花を教え、自身で竹の書をも書いています。

◆沢木興道老師

 近代になり、曹洞宗も学問や儀礼が中心となって坐禅がすたれ、かたや民間は大学出がふえて、仏教は当然のごとく衰微しました。

 それを、名利(出世、派閥や徒党、お金、権力、名声のこと)をもとめず、寺ももたずに九州でひたすら坐禅をしていた沢木興道老師がその坐禅の力で人々の帰依をあつめ、おとろえた曹洞宗を復興。行のちからで流れをとめ、逆行させました。先々代活龍はその「宿なし興道」の弟子で、当寺でも坐禅会をしていました。

義介禅師のこと

 義介禅師は永平寺三世で、道元禅師、二世懐奘禅師に認められて法をうけ、三世となりました。
 そして、禅は人々を救うちからがあるのだと、全国への禅の布教に力を注ぎました。

 

 しかしこの姿勢は、山内の派閥からの攻撃を引き起こしました。法を求める者は山や川をこえて自らやってくるべきであり、禅をこちらから日本各地の津々浦々に布教というのはあり得ない、というのです。

 祈祷を採用したこと、伽藍を整備した事も非難の口実となりました。

伽藍の整備は二世懐奘禅師の命によるものでしたが、徒党をくむ者にはそんな事もどうでもよかったのでしょう。

 義介禅師が老母の介護のために一度禅師を退いて(二世懐奘禅師が代わりに復帰した)、麓で母を介護したことも、出家なのに肉親を捨てきれないとは何事か、と非難されたかもしれません。(なお、介護がおわって義介禅師はふたたび禅師に戻りました。

)

 道元禅師は仏道とは自己をならうなり、と教えました。

この「ならう」はよく「習う」と言われますが、「倣う」でしょう。深奥の自己に従う。いや、従うと言えば二になる。自己そのまま、です。

 

 義介禅師はこの「自己を倣う」をまさに体現していました。坐禅への信があった。だからこそ、永平寺僧団の基礎がなった今、この坐禅をひろめ、人々が内なる般若のままになる道を伝えようとしたのです。

 

 また、御祈祷とは、お寺でやる謂わゆる御祈祷をみなさんイメージしますが、端的には神仏への信仰、祈りです。
 義介禅師の一番弟子の螢山禅師のお母さんは道元禅師の弟子で、やはり観音信仰の人でした。
 義介禅師や螢山禅師には神仏への信仰があった。総持寺派の淵源は神仏への信であるとも言えるでしょう。

道元禅師についても海路遭難時の祈りの話が伝わっています。

 八十歳をすぎて本山から放逐された義介禅師は、螢山をつれ、山々をこえ加賀にゆきました。ふつうなら失意のうちに終わるところです。
 が、義介禅師はちがいました。

この加賀の地で新たに大乗寺僧堂を開創し、誓願と祈りの禅僧らを育てました。

 

 そして高弟の螢山は、のち新たに永光寺僧堂や総持寺僧堂を開創しました。その弟子らも日本各地に僧堂を、寺を建立し、この新たな禅は日本中に広がりました。そしてその総持寺から曹洞宗と呼ばれるようになり、曹洞宗が成立しました。



 かたや、義介禅師を放逐したあとの永平寺僧堂からは大檀越の波多野氏が去り、急激に衰退します。
 このとき、一時は廃寺まじかになった永平寺を、この総持寺が支えました。そして江戸時代は曹洞宗寺院のうち大半が総持寺系でした。

 近代になり一般人に大卒がふえ知識レベルもあがり、その風潮のなか、曹洞宗も衰微しました。
 
 その時、野にあって全てを捨てて坐禅を専らにしていた「宿無し興道」こと沢木興道老師を、大本山総持寺はなんと後堂老師に大抜擢しました。
 住職資格がなければ本山役寮にはなれないのがルールですが、総持寺はあえて野の坐禅家を抜擢したのです。

そして曹洞宗は復興されました。

 この大本山総持寺は、現代でも、同じように住職資格もなかった吉野真常老師を後堂に登用しています。
 偉くなるのは人脈・派閥の数・カネというのは人の世の常ですが、大本山總持寺については、いまでも時としてこのように在野の坐禅家をも登用しているのです。

 曹洞宗では名利を求めず坐禅を専修する昔のような坐禅家を古仏といいます。
 大規模法要の技術や派閥は、出世、お金や権力をももたらします。坐禅をしても今の曹洞宗では評価はされません。役立たず、変わり者扱いです。
 そんな中、住職にもならず古仏の道を歩む者を総持寺は認め、登用してきました。これも、人々を救う事を第一義とした義介禅師の誓願が根底にあるからです。
 

 今日、義介禅師は事実上忘れられています。しかし、野僧は心から尊敬しています。曹洞宗の復興は、日本の再建は、あくまで義介禅師の誓願の継承と坐禅にあると信じています。義介禅師こそ、道元禅師、懐奘禅師にみとめられて永平寺僧堂の後図を託され、さらに螢山禅師を育てた方なのです。

 どうぞ皆さん、石川県に旅行された時には大乗寺僧堂にぜひ拝登なさってください。また、地震で被害を受けた能登半島の被災者の生活再建、また、できうれば総持寺祖院の復興のためにもお力をお貸しください。よろしくお願いします。

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毎月第1日曜   朝6時より  坐禅会(約30分)。了って、お粥あり。九州佐賀県小城市芦刈町

現在はコロナにて休止中

2018.1.9。午後2時より。  新年ご祈祷会。落語あり。

2018.10.XX  団体参拝にて愛媛団参拝を予定(瑞応寺僧堂などの曹洞宗名刹に拝登し、さらには四国霊場や観光地を巡ります)

2018.4.17  お施餓鬼会。

餓鬼(無縁仏)を供養すればお経の功徳は7倍となります。その7倍の功徳を大切な故人・先祖に回向し巡らすのが、お施餓鬼です。

2018.4.17  お施餓鬼会。

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  • 永代供養、納骨所、葬儀のご相談については、あらかじめ、坊守にお電話のうえ、来寺ください。住職は電話はこわいので、あくまで坊守に。  合爪


※当寺では過去帳の開示は一切しておりませんし、先祖調査・系図作成への協力もしておりません。ただし一般論としてアドバイスならできる事もあるでしょう。
 また、うちに限らずどこのお寺にであれ歴史を調べるためにお寺にいく場合には、あらかじめ予約の上、お仏前は持参しましょう。よろしくお願いします。

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