カバー写真 (出典、平吉郷絵図(鍋島報佼会蔵)。転載は要許可)。
佐賀県小城市芦刈町にある曹洞宗総持寺系の寺院福田寺です。山号は鶴簏山、肥前千葉氏の千葉胤鎮末裔の徳島氏が建立しました。塔頭寺院もならび、寺町として坊主原と呼ばれました。
写真は『運歩色葉集』という江戸時代の国語辞典より。
また永代供養のご相談もお受けしております(永代供養塔は宗旨不問です)。
小城市(牛津町・芦刈町・三日月町・小城町)、佐賀市他の方、お気軽にお問合せ下さい。
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山の行より里の行
毎日の生活のなかで「四諦•八正道」を日々行ずる事こそが、今生での行。特別な行ではなく、日々の営みを行場とする。
【四諦】
原因(集諦)➡︎➡︎➡︎➡︎➡︎➡︎➡︎➡︎結果(苦諦)
渇愛・貪欲 ↑ 苦しみ
↑
渇愛を捨て
執着を断ちきれば(道諦)
➡︎苦は消滅する(滅諦)
↑
↑
具体的には八正道...
【智慧】正見、正思惟、
【戒】正語、正業、正命、
【定】正精進、正念、○正定
➡︎より実践的な六波羅蜜へ
【六波羅蜜】
①布施=与える。まわりと分かち合う。
②持戒=戒をたもつ。譲れない一線をもつ。
※禅戒一如=日常坐臥を無心に行ずる中に、自ずと戒が実現(現成)される、そこにおいては、禅と戒は一体である。
③忍辱=目的を第一とし、些細なトラブルに心をかき乱されない。怒らない。
④精進=目的(誓願)をもち、その実現のため日々がんばる。「願生」
⑤禅定=無心に集中。坐禅。朝晩に仏檀に手をあわせる黙祷もよい。
⑥智慧=内なる声、内なる般若。禅定による。
※七走一坐(坐一走七)。まず一坐し、以って毎日の忙しさ(七走)を生きる。
過去(業)にひきずられて生きるのを、未来の目標(誓願)を芯・軸にもつ生き方に転換する事で、人生が変わるります。
過去に引きずられた生き方では小さなトラブル(小難)が日々の生活で大きな問題のように感じられ、感情に振り回されますが、
目標を持って生きれば(願生)、それがこんなの小難だからノープロブレム(無難)となります。
そしてその目標が自分一人の損得ではなく、利他の「一灯隅を照らす(一灯照隅)」となった時、それを誓願といい、そのような人が社会にふえれば「万灯国を照らす(万灯照国)」となります。
仏教では古来誓願力と言います。私たち一人一人の中に菩薩があり、仏がある。目的意識を持つことに誓願力がはたらき、目標に引っ張られて人生が変わってゆきます。
利他の心をもち、誓願力のはたらく願生を生きましょう。
禅における沈黙とは、耳を傾けるための沈黙です。
「仏道とは自己をならうなり」。深奥から内発してくるかそけき声に、耳をかたむけ、したがう。「自己に倣う(ならう)」。つまりは、うちなる般若のままに。坐禅はこの自己に至る道です。
坐禅にあるのは外なる権威への盲従や形式への執着ではありません。坐への信、般若(内なる声)への信。義介禅師の生涯は、奇矯にはしらず、日常底のなかでこの「自己をならう」を実践するものでした。
centering downしてゆき、沈黙のなかに内発する自己をつかみ従うのです。
〜自己のままに。般若のままに〜
不正や理不尽が世にはびこる時代こそ、みなが内なる声に耳を傾け従うことで、この世界ははじめて変わるのです。禅が世界にもたらしうる奇蹟があるとすれば、それです。ここに尽きるのです。
上は大正時代ヵの福田寺(大心老師代ヵ)
願わくは、この功徳を以てあまねく一切に及ぼし、我ら衆生みな共に仏道を成ぜんことを。
さむい日がつづいています。
家族で新しい年を迎えようという喜びの日である元日に、能登地方でたいへんな地震がおきました。
被害は想像をこえたもので、地面も何メートルも隆起するという大地震でした。
そして、多くの方が、くるしんでいます。
私たちは一人一人がよわい存在です。が、みなで助けあう事ができます。
世相わるくなり、人が人を喰らうがごとき事件がふえてきた昨今ですが、今こそ助け合いましょう。
一灯隅を照らし、万灯国を照らす。私たちのまわりを思いやりで灯していきましょう。
災害国日本に生まれた私たちの誇りは、肩書きでも、財布でも、持ち物の豊かさでもなく、
助け合い、分かち合い、希望を失わず、なんど倒れても立ち上がる生き方です。
希望をうしなわず、目の前の石を一つ一つとりのぞき、もう一度立ち上がりましょう。
被災地への支援、よろしくお願いします。
珠洲市への寄付
https://www.city.suzu.lg.jp/site/hurusato-nouzei/4025.html
先々代の活龍老師は坐禅家で、宿無し興道と呼ばれた沢木興道老師の弟子でした。当寺にも沢木興道がきて坐禅会をしており、手縫いの御袈裟や教授戒文などを拝領しています。
下の写真は当寺で沢木老師が坐禅会をした時に撮影した写真です。活龍老師は前列左から二人目。
●禅戒一如
日常坐臥を無心に行ずる中に、自ずと戒が実現(現成)される、そこにおいては、禅と戒は一体である。そして、それぞれの地で法を守るのが禅僧の仕事であり、それぞれの寺が作務叢林、坐叢林となる。
この現実世界(娑婆世界)の中で法を守るのは困難なことですが、代々の僧が日々を無心に行じ、それが後世にも受け継がれゆくのです。
●岡本太郎
永遠というのは時間を越えた「瞬間」なんだ。
●勝海舟
「人は何事によらず胸の中から忘れ切るといふことが出来ないで、始終それが気にかかるというようでは中々たまったものではない。
いはゆる『坐忘』といつて、何事もすべて忘れてしまつて、胸中濶然として一物を留めざる境界に至つて初めて万事万境に応じて横縦自在の判断が出るのだ。」
「〜ただただ一切の思慮を捨ててしまつて、妄想や雑念が、霊智を曇らすことのないやうにしておくばかりだ。」
「いはゆる心を明鏡止水のごとく磨ぎ澄ましておきさへすれば〜」
写真は戦後の福田寺(活龍老師代)
戦時中の空襲で爆弾を落とされ、活龍老師が終戦で帰国した時に屋根に大きな穴があいていた。屋根右上の瓦が新しいのが、その修復痕になります。
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」、かの瑩山が師の義介禅師に答えた言葉です。
仏法は難解な教理や特別な行にあるのではない、日常底にこそある。日常底に無心になりきる。
写真はインドのラダックの篤信者のお宅に泊まった時にも娘さんが食事を作っていた光景
この光景の静謐さに心を打たれました。
下の写真は一泊させて頂いた山中の僧堂にて、小麦粉をといた飲み物を頂いた時の写真。
近代になり、曹洞宗も学問や儀礼が中心となって坐禅がすたれ、かたや民間は大学出がふえて、仏教は当然のごとく衰微しました。
それを、名利(出世、派閥や徒党、お金、権力、名声のこと)をもとめず、寺ももたずに九州でひたすら坐禅をしていた沢木興道老師がその坐禅の力で人々の帰依をあつめ、おとろえた曹洞宗を復興。行のちからで流れをとめ、逆行させました。先々代活龍はその「宿なし興道」の弟子で、当寺でも坐禅会をしていました。
「車返しの桜」。
神代氏が芦刈邑に入部した時に殿様が籠の中からあの桜はなん重か?と三度問い、家臣が見にゆき、あの桜は〜と復命しました。それから毎年、この桜で殿様が花見をしたという。八重。
また、神代氏の殿様がお茶をした井戸もある。いまは水は枯れたが、昔はこのあたりは水がでず人々が水をもらいにきたそうです。
義介禅師は永平寺三世で、道元禅師、二世懐奘禅師に認められて法をうけ、三世となりました。
そして、禅は人々を救うちからがあるのだと、全国への禅の布教に力を注ぎました。
しかしこの姿勢は、山内の派閥からの攻撃を引き起こしました。法を求める者は山や川をこえて自らやってくるべきであり、禅をこちらから日本各地の津々浦々に布教というのはあり得ない、というのです。
祈祷を採用したこと、伽藍を整備した事も非難の口実となりました。
伽藍の整備は二世懐奘禅師の命によるものでしたが、徒党をくむ者にはそんな事もどうでもよかったのでしょう。
義介禅師が老母の介護のために一度禅師を退いて(二世懐奘禅師が代わりに復帰した)、麓で母を介護したこと、これが決定的だったのでしょう。(なお、介護がおわって義介禅師はふたたび禅師に戻りました。
)
中国でも明代に王陽明は坐禅を志しましたが、家族を捨てねばならぬの一点に懊悩し、ついに断念した例があります。それを考えれば、義介禅師は出家なのに肉親を捨てきれない、これは何事かとの批判には説得力があったのでしょう。
道元禅師は仏道とは自己をならうなり、と教えました。
この「ならう」はよく「習う」と言われますが、私見ですが「倣う」ではないでしょうか。深奥の自己に従う。いや、従うと言えば二になる。自己そのまま、です。
義介禅師はこの「自己を倣う」をそのまま実践し、それが老母の介護のため、僧団では「家族を捨て、肉親の情をすてて出家する」が長く伝統とされて来ましたが、この最もシンボリックな場面であらわれ、部分社会の外的な権威・規範に反逆する事になったのでしょう。
義介禅師はこの「自己を倣う」をまさに体現していました。
坐禅への信があった。だからこそ、永平寺僧団の基礎がなった今、この坐禅をひろめ、人々が内なる般若のままになる道を伝えようとしたのです。
なお、御祈祷とは端的には神仏への祈りです。義介禅師の一番弟子の螢山禅師のお母さんは道元禅師の弟子で、やはり観音信仰の人でした。
義介禅師や螢山禅師には神仏への信仰がありました。総持寺派の淵源は神仏への信であるとも言えるでしょう。
道元禅師についても海路遭難時の祈りの話が伝わっています。
八十歳をすぎて本山から放逐された義介禅師は、螢山をつれ、山々をこえ加賀にゆきました。ふつうなら失意のうちに終わるところです。
が、義介禅師はちがいました。
この加賀の地で新たに大乗寺僧堂を開創し、誓願と祈りの禅僧らを育てました。
そして高弟の螢山は、のち新たに永光寺僧堂や総持寺僧堂を開創しました。その弟子らも日本各地に僧堂を、寺を建立し、この新たな禅は日本中に広がりました。そしてその総持寺派から曹洞宗と呼ばれるようになり、曹洞宗が成立しました。
かたや、義介禅師を放逐したあとの永平寺僧堂からは大檀越の波多野氏が去り、急激に衰退します。
このとき、一時は廃寺まじかになった永平寺を、この総持寺が支えました。そして江戸時代は曹洞宗寺院のうち大半が総持寺系でした。
近代になり一般人に大卒がふえ知識レベルもあがり、その風潮のなか、曹洞宗も衰微しました。
その時、野にあって全てを捨てて坐禅を専らにしていた「宿無し興道」こと沢木興道老師を、大本山総持寺は後堂老師に抜擢しました。
住職資格がなければ本山役寮にはなれないのがルールですが、総持寺はあえて野の坐禅家を抜擢したのです。
そして曹洞宗は復興されました。なお、この総持寺は、現代でも、同じように住職資格もなかった吉野真常老師を後堂に登用しています。
坐禅は今日の曹洞宗では評価はされません。そんな中、住職にもならず古仏の道を歩む在野の坐禅家〜名利を求めず、坐禅に専心する行者を古仏という〜を大本山総持寺は認め、たびたび登用してきました。これも、人々を救う事を第一義とした義介禅師の誓願が根底にあるからです。
今日、義介禅師はあまり知られていません。しかし、曹洞宗の復興は、あくまで義介禅師の誓願の継承と坐禅にあります。義介禅師こそ、道元禅師、懐奘禅師にみとめられて永平寺僧堂の後図を託され、さらに螢山禅師を育てた方です。
どうぞ皆さん、石川県に旅行された時には大乗寺僧堂にぜひ拝登なさってください。
また、地震で被害を受けた能登半島の被災者の生活再建、また、できうれば総持寺祖院の復興のためにもお力をお貸しください。よろしくお願いします。
毎月第1日曜 朝6時より 坐禅会(約30分)。了って、お粥あり。九州佐賀県小城市芦刈町
※現在はコロナにて休止中
2018.1.9。午後2時より。 新年ご祈祷会。落語あり。
2018.10.XX 団体参拝にて愛媛団参拝を予定(瑞応寺僧堂などの曹洞宗名刹に拝登し、さらには四国霊場や観光地を巡ります)
2018.4.17 お施餓鬼会。
餓鬼(無縁仏)を供養すればお経の功徳は7倍となります。その7倍の功徳を大切な故人・先祖に回向し巡らすのが、お施餓鬼です。
2018.4.17 お施餓鬼会。
餓鬼(無縁仏)を供養すればお経の功徳は7倍となります。その7倍の功徳を大切な故人・先祖に回向し巡らすのが、お施餓鬼です。
電話:09:00~16:30
永代供養、納骨所、葬儀のご相談については、あらかじめ、坊守にお電話のうえ、来寺ください。住職は電話はこわいので、あくまで坊守に。 合爪
※当寺では過去帳の開示は一切しておりませんし、先祖調査・系図作成への協力もしておりません。一般論として、郷土史についてのアドバイスならできる事もあるでしょうが。
また、うちに限らずどこのお寺にであれ歴史を調べるために伺う場合には、あらかじめ予約の上、お仏前は持参しましょう。当職は地域の歴史の継承も寺の役割と思い郷土史を調べはしてますが、一般のお寺さんは歴史には全く関心はありません。